フランスから世界をみる。無駄のない洗練された文章『異国の客(池澤夏樹著)』
解説文ではよく読んでいたけど、まとまった書き物としては初めて読んだ。
略歴を見ると、小説家・詩人・批評家・翻訳家とあった。
詩人、か。なるほど。
読んでいると文章の中に、うっとりと見とれてしまう単語が隠れていたりする。
なんでもない言葉なんだろうけれど、目が離せなくなる。
見知らぬ土地への不安といったところでうっすらと刷毛で刷いたくらいでしかない。
「うっすらと刷毛で刷いた」とか、それから暖炉の取り扱いについてなどは、
世話を求めるという点では少しだけペットに似ている。夜、二時間だけ訪れて帰ってゆく暖かくてきれいなペット。
そういう風にして冬が来た。
暖炉について説明がとても詩的。簡潔に過不足なくだからこそ美しい。
私の大好きな食についてのも、いい。
キャベツの酢漬け(ドイツ語のザワークラウトという名の方が日本では知られているかもしれない)。それにソーセージや厚く切ったハム、ロースト・ポークなどを添えて温めて食べる。これを注文するとまず何人前かと聞かれてシュークルートの量が決まり、それとは別にソーセージやハムが相談ずくで次々に加わる。
食品全般に言えることだが、味が濃く。だから野菜でも肉でも、取り合わせて塩と胡椒を加えて火を通すくらいで食べられる。単純なポトフがおいしくできる。
フランスは農業の自給率が高い国だから、日本で食べるよりおいしそうだ。
ただしマルシェで買ったり個人商店で購入したものに限る。フランスにもスーパーマーケットで買うと、品質保持のため味は劣るようだ。
素人が毎日の食事のために魚のアラを大量に買ってフュメ・ド・ポワソン(魚の出汁)を作ってはいられない。手近な食材を、素早く調理して、ゆっくりおいしく食べる。これが基本だ。
やっぱり素材のいいものを、シンプルに食べるのがいい。
沖縄でも、夕食の準備を待つ時間として午前と午後があるような日々だった。
気になったり、いいと思ったのは食だけではない。
フランス(海外)に長期住む理由として、その土地を拠点としてものが見えること、世界のからくりがわかること、が大事とあった。
だからか、ものの見方の一つとして、興味深い記述も数多くあった。
しかし、人はすべてを自分で決めて動いているわけではない。周囲の状況や条件があって、自分の中の意思があって、この二つの力が拮抗したところでことは決まってゆく。後になって説明する時にすべてを自分で決めたかのように言ってはいけない。またすべてが外の条件で決められたように言うのも無責任であって、成り行きという言葉もあるけれど、成り行きと決断の両方が作用して人の航路は決まるのではいか。
フランスでは政治に宗教は持ち込ませないよう、法律でも決められているし徹底していると思ったのは、
モスレムの多い地域のスーパーマーケットが豚肉の販売をやめたところ、それを違反して行政が「指導」しかけて議論になったことがあった。
店側の言い分は、豚肉を置けばモスレムの客が店に来なくなる(モスレムにとって豚国はたんにいらないものではなく、汚れたものだ)。
売れない商品を店に置くのは市場原理に反するというもの、理由の一つ。
しかし、ゲットーを作らせないという国の方針はそれに優先する。
信仰が異なっても国民は隣り合って仲よく暮らすよう努力しなければいけないし、ゲットー化によってその機会を奪ってはいけない。豚肉が買えないことでその地域の非モスレムが住めなくなってはいけない、というのだ。
豚肉の販売とりやめから、モスレム以外の人たちの権利が排除される(ゲットー化)という視点が、自分にないものだったから、はっとした。
いろいろな国や文化のひとと共同して暮らす、というのはこういうこのなのだ、と。
2005年当時の世界情勢について。
イラクでの日本のNGO拉致は、救出に政府は乗り気ではなく「自己責任」として投げた。今のコロナ渦の「自粛警察」状況と似ていてぞっとする。
日本の社会の底の方に何か巨大な負のエネルギーのようなものがわだかまっていて、拘束された三人と政府とマスコミはそれを目覚めさせた。とても不気味で、おぞましいもの、カジュアルなファシズムのようなもの。日本という閉鎖空間は深いところで病んでいるように思われる。
「カジュアルなファシズム」とあるが、なんだか戦時中のように団体の行動を乱すものは、率先して密告する余裕のない空気が、今起きていてるようで、嫌だ。
2005年の状況を綴っているのに、今や戦時中に通じるようで、大丈夫かと思ってしまう。
「自己責任」という言葉はあちこちで聞くけれど、民間(政府に対して)が「勝手」に行動した結果は、各自でなんとかするようにって、なんだろう。
「日本政府」というのはなんのために機能するのだろう。「国民」のための「政府」ではないのか。
このエッセーはフランス フォンテンブローの暮らしや、暮らしから見える世界について書かれているので、詩のようにうっとりする文章もあれば、政治的な意見がちりばめられている。15年以上も昔のことだけれども、今読んでも遜色はない。
次の年のエッセイも刊行されていたので、続けて借りてこよう。